ドクトル・ジバゴ Doctor Zhivago 1965

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Doctor Zhivagoドクトル・ジバゴ Doctor Zhivago 1965

監督: デビット・リーン
原作: ボリス・パステルナーク
出演: オマー・シャリフ, ジュリー・クリスティ, ジェラルディン・チャップリン

1965年のアメリカとイタリアによる合作映画。
アカデミー脚色賞、撮影賞、 作曲賞 - モーリス・ジャール、美術監督・装置賞(カラー)賞、衣裳デザイン賞(カラー)(1965年)

モーリス・ジャールによる挿入曲、ララのテーマは誰も忘れることがないメロディラインがある。この音楽は、どんな人生でも最後には明るいことが待っているような曲、そう思わせる曲である。
僕はこの映画は4度くらい見ているが、最初はあまりストーリーがわからず、そのあとはただの不倫の物語?、ラーラは一体愛に人生をかけているのか、それとも流されてしまう女性なのかと疑問に思って面白くなかった。
最近見て、なるほどそうだったのかと思った。二人はロシア革命の中で引き離されても、二人の愛は消えなかったと言えるのが最後の結末なのである。

ロシア革命という大きな時代の流れで運命が弄ばれた詩人であり医師のユーリ・ジバゴと、ファム・ファタールとも言える非常に魅力ある女性が、革命と男たちに翻弄されながら生きていく物語である。
ロシア革命を通じて、多くの人の人生が大きく揺れた。その激動の中の詩人であり医師のユーリ・ジバゴとラーラの人生を描いている。
冬の中のあの田舎にある建物、ユリアティンの近くベリキノにある氷雪に閉ざされたダーチャ(別荘)。そしてそこは幸せなにユーリ、ラーラとラーラの娘の三人で住む場所だった。ラーラが愛したのは、ユーリ一人であり、ユーリは最後にラーラを選ぶ。
ユーリはラーラのために詩を書く。彼らが住む家は氷の部屋であり、その窓には美しい雪の結晶、夜には狼の遠吠えが聞こえる。


ラーラはファム・ファタールだろう。(男の人生、運命を狂わせるほどの魅力的な女性である)
母の愛人から好かれ彼の愛人となり、母は自殺未遂をおかす、幼馴染のパーシャとは結婚するがパーシャはボルシェビキ運動に没頭して、ユーリ・ジバゴは一目で恋に落ちたが、その後ターニャと結婚して、軍医として働いていた頃にラーラに再会する。
ユーリの兄イェブグラフ・ジバゴ将軍はラーラから、ユーリと彼の娘を探してと依頼されるが次第にラーラを好きになる。
不倫の物語とただ片付けていいんだろうか。ロシア文学のアンナ・カレーニナは代表的な不倫の名作である。戦争と平和も一途の恋の物語ではない。
単なる不倫というには、彼らの運命はどうなるかわからない状況にあって不倫ということで片付けれるのだろうか。運命的に愛したのである。それはどんな社会的な状況があって妨げられないものだったのだろう。

ラーラの娘はバラライカの名手である、ユーリの母譲りの腕であり、ユーリ・ジバゴの娘であることを確信させる。そこに彼らの愛の成就があり涙を誘うのである。赤いバラライカと最後にラーラの娘トーニャが持っているシンプルなバラライカが最後に印象的である。

ただ、最後にトーニャやトーニャの父は無事にパリに行けたのだろうか?そこがわからない。ラーラのパーシャとの間にできた娘はどうなったのだろう?ラーラは、コマロフスキーと満州に行ってどんな暮らしをしていたのだろうか?ここが映画ではわからなくて中途半端な印象を与えてしまう。これは原作を読めば書いてあるのだろうか。

パステルナークはパーシャの言葉をかりてロシアの全体主義を批判している。
ジボゴの詩は、馬鹿げたほど個人的である。今のロシアにとって感情、洞察、愛情などはもう些細なものでしかない。個人的な生活はロシアでは滅びた。歴史が殺したのだ。 と。

ジェラルディン・チャップリン
カリフォルニア州サンタモニカにて生まれる。父親はチャーリー・チャップリン、母親はウーナ・オニール(ユージン・オニールの娘であり、チャップリンの4番目の妻)

ロシア革命
2月革命、第一次世界大戦中のロシアで1917年に発生した革命運動である。そして十月革命と続く。ロマノフ朝による帝政(ロシア帝国)が崩壊し、数年間の革命と内戦を経てソヴィエト連邦の設立につながった。

原作者 ボリス・パステルナーク
パステルナークの家族や近しい知人達は十月革命の後ロシアを去ったが、彼は留まった。その後も次々と詩や散文を発表し、早くから高く評価されていたが、1930年代には政治的非難を受け、沈黙を強いられた。この間にシェークスピアや『ファウスト』、グルジアの詩人などの翻訳を手がける。
1957年その体制批判を含む内容のためにソビエト連邦での公刊を拒否された『ドクトル・ジバゴ』がイタリアで出版される。『ドクトル・ジバゴ』はロシア革命を批判する作品であると考えられたために本国ソ連での発表はできず、イタリアで刊行され、世界的に知られることになった。翌年にはノーベル文学賞がパステルナークに授与されることになったが、ソ連共産党が辞退を強制した。受賞すれば亡命を余儀なくされると考えたパステルナークは「母国を去ることは、死に等しい」と言い受賞を辞退した。

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