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女であること 川端康成 1956

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女であること

女であること 川端康成 1956

これは川端作品の中でも名作に入るだろう。読んでいてその展開に引き込まれる。文章が美しいのはしごく当然であるのだが。
市子とさかえのやりとりが、なんとリアルで女らしい関係なのかと感服する。
特に市子とさかえの女としての考え方、行動が、実にリアルに、鋭く精緻な描写で鮮烈に描かれている。
特にさかえは、実際に、現代でもいるかと思える女性である。自分の思うままに生きて、そして魅力がある。
女性からみれば、その魅力に怒れないのだが、翻弄されている自分に苛立たしくなるだろう。
市子はどちらかといえば、理想の女性であるが、そうした女性も、夫に若い女性の出現によって心が乱れ、今までの妻とは違う自分に変わっていく。
そして過去の恋人の出現も市子は動揺するである。
妙子は確かに描かれているが、ややぼんやりとしたこうした女性もある。女性の性、哀しさ、男への献身が描かれている。しかし現在ではもう古いタイプなのかも。

やっぱり川端らしく、最後は読者に想像させる結末である。ただ、さかえの行動が、母と別れた父をどこか心の奥底に持ちながら 
佐山に恋をしていたというのは、すこし安易な心理分析のような感じがあする。

一度原節子主演で映画化されているが、もう手に入らないようだ。
もっとテレビドラマ化されていてもよかっと思われる作品なのだが。

花のワルツ 川端康成 1951

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花のワルツ花のワルツ 川端康成 1951

短編が3つ、中編の花のワルツが収録されている。日雀には異論がある人がいるかもしれないが、どれも女性が持つ魔性のような魅力が描かれている。


イタリアの歌 1936

冒頭、唐突に火だるまになった人間が描かれている。この描き方がすごい。なんの誇張もなく冷徹に描かれている。それがリアリティを増している。
咲子の服にも火がついているのだが、そこの表現がいい。
"咲子のスカアトが裾からちろちろ燃えていた。彼女が身動きせぬゆえか、その焔は童話じみた静けさに見えた。だらりと垂れた手の袖も燃えていた。"
その後は、二人が入院した病院の中が描かれている。病院の中の噂話、そして扁桃腺的手術を待つ子供たち、材木問屋の妻、老夫婦の会話などが。

"あの火に包まれた時、心と体のどこかに、年を取ってしまったところと、子供にかえったところがある。それがまだ調和せずに、彼女のうちで闘争している。
そのせいでヒステリックになるらしい。"
どうしてこんなことが書けるんだろうか。すごいね。

"咲子の歌声が流れて来た。低いけれども、生の喜びの湧き上がる肉声であった。
なんということなしに、家なき子のイタリアの歌を歌い始めた。涙が流れるにつれて、声は明るく高まって来た。
明日の朝は胸いっぱいの力で歌ってやろうと思った。"
咲子の複雑な心情が鋭利な刃物のように描かれている。そして読者の心をえぐる。

恋人ともはっきり言えぬ二人なんだろう。遠い外国で二人っきりになったら、きっと結婚するだろう、そんな二人の間の話が思い出された。
と描かれているから。彼女には鳥居博士が正式な婚約者でもないことがわかっていたし、彼の死にも幾分彼女の責任がある。
だから彼女は、スカアトが燃えている時に動揺して動けなかったのだろうか。

題名のイタリアの歌はなんだろうか?これを調べて見ると家なき子の映画が、日本で1935年に『家なき兒』として公開されている。
主題歌は、『家なき兒』(作曲:田村しげる・歌:東海林太郎)であるがこれではないだろう。
原作にあるのはナポリ民謡で「Fenesta Vascia」(低い窓)ということだ。この歌は、恋人を思っている女性の愛の涙の歌である。

開かない窓

冷たいあなたの窓は開かず
どれほど私はため息を繰り返したことか。
私の名前を呼ぶあなたの声を聞いたなら
この心はキャンドルの炎のように燃えるだろう。

たとえ雪が降って手が悴んでも
きっとあなたは私につらく冷たく接する。
私が死ぬのを見ても、助けてもくれないのだろうか。

私は少年になって
壺に水を入れてこのあたりを売り歩きたい。
そして叫ぶのだ。
「ああ、愛しい人達よ! 水は要りませんか?」と

すると上の女性が振り向いて言うだろう。
水売りのこの少年は誰なの?
私はやさしく答える。
これは水ではなくて、愛の涙なのだと。


花のワルツ

花のワルツ」とはチャイコフスキーのバレエ組曲 くるみ割り人形の最後を飾る有名な曲

冒頭からすごい、花のワルツを踊り終わって幕が降りきらないうちに、バランスを崩して鈴子が星枝に平手打ちをする。そして星枝さんとはもう一生踊らないと言う
鈴子の反応がすごい。二人の強い確執がよく現れている。
このアンコールの踊りの表現がいい。
星枝は耳にも入らぬ風だった。われとわが踊りに憑かれて、われを忘れて行った。楽しげに熱を帯びて来た。
鈴子はそれを見ると、自分の踊りが乱れて来た。身も心も踊りに入りきれなくて、ぎごちなさがからだでわかった。
鈴子は、嘘つき、憎いは、ひどいわ。こわい人。と星枝に言うが、ただ夢中に踊っていた。
負けるものかという風に、鈴子の踊りにも激しい若さが波立って来た。

鈴子は感情的な性質があるのだが、内弟子で、先生の竹内の世話を喜んでしている。
星枝はマイペースであり、他人のことはあまり気にしない。生まれつきのお嬢様である。天才肌の星枝の方が魅力的に描かれている。奔放でありながら、純粋である。
二人は踊りでは、特に鈴子は強いライバル心を持っているが、意外と踊り以外では仲がいい。

洋行から帰ってきた南条は、松葉杖を突いていた。星枝はすぐに伊達の松葉杖であるのを見抜く。南条は、鈴子の踊りでなくて、星枝の踊りを見てまた踊りたくなった。師の竹内の踊りに似ている、天才であると星枝に話す。
踊りをやめたという星枝は、南条に強引に誘われ二人で踊るようになる。そして二人は林の中に消えて行く。このシーンも踊りの魔法にかかった二人のようにも見える。
まさに墓場の中の死人が起き上がって踊り出すようなもの

二人の女性の描き方が冴えている。精緻に、リアルに、そして美しく描かれている。二人の個性の華やかな対称性がはっきりとあるのだが、二人とも一緒のようにも思える。不思議な二人である。
最後はこれもまた、川端らしく結論づけていないが、女性たちの強さが浮き出ている。

それに比べて南条のひ弱さが浮き立っている。まさに傷ついた動物が、魅力ある女性に惹きつけられ、最後の命を燃やすような感じである。竹内も受動的な人間であるように見える。

川端はまさに踊り子の純粋さ、踊りに対する強い心をいつも鮮やかに描いている。


日雀
ヒガラ シジュウカラに属する。オスはシジュウカラよりも速いテンポでツピン、ツピン、ツピンと高木の上でさえずる

上松の大火の記事を見て、素晴らしい鳴き声のする日雀を思い出す。女と上松に行った時に出会った日雀の鳴き声を思い出しては、
その日雀を手に入れなかったの後悔する松雄。彼は妻以外に女を作るのが、いつも長続きしない。

自分の女関係を妻の治子に隠しもしない。そして
"それらの女たちがなぜあんなに早く松雄と別れてしまうのだろうかというのは、容易に解けぬ謎だった。
松雄は別れた女のことをなんの苦もなく忘れてしまえるらしい。"
話の要点であるが、美しい文章である

松雄が愛でた日雀の鳴き声はやはり妻に感動を起こす。
"名鳥の鳴き声は高く澄んで、切ないほど長くつづき、治子の胸を清く通った。彼女は目をつぶって、じっと聞き惚れた。
なにか神の世界から夫の生命に通うものが、一筋に響き渡って来るようであった。治子はひとりでうなずいて涙ぐんだ。"
この最後の文章もいい。難しい文章ではないが、本当に読んでいるものにも染み入る文章である。
この日雀の鳴き声は今までの夫に対する浮気の不満を消し去るほどの心に染み入って慰めてくれるほどの素晴らしいものであった。


朝雲

女学校の女学生の女教師への憧れ、淡い恋心を、独白体で描いた作品。
美し過ぎる先生に対するまっすぐな気持ちと、周りの生徒を気にする恥じらいが本当に上手く描かれている。
そして自分が菊井先生に感じた気持ちが鮮烈に描かれている。

菊井先生が渡廊下の古い窓から見上げていた姿、あの方の雲はその土地その土地で形が違うと聞いたという話
あの方の美しさが私を刺し貫くように感じた。
自分のうちのなにかが目を覚ました。それが青春というものでったろうか。
まるであの方を突っ放すように無愛想な返事だし、あの方に反感を抱いているような素振りをわざとお見せしたこともあった。
あの方は美し過ぎるもの。

最後に先生が自分の町を去る時の表現も素晴らしい。
あの方の汽車をかくした山際には朝雲がかかっていた。その雲のなかから、あの方の
お手を振っていらっしゃるのが見えるようだった。私を見つめていてくださるようだった。
初秋の朝の微風があった。

舞姫 川端康成 1951

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舞姫 川端康成舞姫 川端康成 1951

舞姫は、森鴎外の小説が有名であるが、これは川端が書いた、バレリーナの話である。
敗戦後の八木家の四人家族の、ゆっくりした崩壊を描いている。波子と品子の話が中心に描かれている。

川端が作中で初めて魔界という言葉を用いた作品である。
仏界易入 魔界難入、仏界、入り易く、魔界、入り難し
川端が魔界について語っているが、その意味をもっと難しくしてしまっているようにも見える。
川端は、意味はいろいろに読まれ、またむづかしく考へれば限りないでせうが、
「仏界入り易し」につづけて「魔界入り難し」と言ひ加へた、その禅の一休が私の胸に来ます。
究極は真・善・美を目ざす芸術家にも「魔界入り難し」の願ひ、恐れの、祈りに通ふ思ひが、表にあらはれ、
あるひは裏にひそむのは、運命の必然でありませう。
「魔界」なくして「仏界」はありません。そして「魔界」に入る方がむづかしいのです。心弱くてできることではありません。

友子と品子がお風呂に入っている時に、友子が品子に、仏の手を一緒に踊ってほしい、私は仏を礼拝する飛鳥乙女を踊りたいと願うところがある。
品子が"薬指のさきを、親指の腹につけて、その観音か弥勒かの、手つきをしていた。そうして顔もおのずと仏の思惟に誘われて、
こころもちうつ向き、しずかに目を閉じた。"
そこの表現が非常につくしい。美しい女性が仏の姿勢をとる。それもお風呂の中で、それは夢幻のように美しいのかもしれない。

みづうみ 川端康成 1955

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みづうみみづうみ 川端康成 1955

ストーカーの話である。文体が美しいのは当然であるが、今回はストーリーに注目したい。主人公の銀平はただの観察者でなく、観察者を突き詰めたストーカーであり、追いかけた女性にも声をかける男である。そして悪知恵が働く。
現代仮名遣いでは『みずうみ』表記だが、原題はみづうみである。どうしてなんだろう。この理由はわからない。

作品は、ストーリーだけではなく銀平の中にある意識、過去の思い出、現実、そして幻想から妄想にまで広がる意識が描かれている。

銀平が高校教師だった頃に初めて後をつけた教え子・玉木久子のことや、母方の従姉・やよいへの少年時代の初恋を回想しながらストーリーが進む展開である。
猿のような甲の皮が厚い醜い足を持っている銀平。これが彼の自分自身に対するコンプレックスである。度々このことが記述される。特に劣等感を感じる時にはこの事が思い出される。

みづうみと作品の中にでてくる水虫の音が同じようにひびくので、すこし笑いながら読んだ。

銀平は町枝に声をかけたが、少女は何も答えず相手にしなかった。少女のその美しい目の黒いみずうみに裸で泳ぎたいという奇妙な憧憬と絶望を銀平は覚えた。これがまた銀平の異常さだが、これが美しい文章で描かれるとなぜか不思議なトリックの中に落ちてしまいそうである。
単行本刊行の時に、連載第11回の後半と最終回の第12回の全文が切り捨てられたため、冒頭部の時空間に戻っていく円環構造が崩れ、未完のまま放置された作品となっているそうだが、もう連載第11回の後半と最終回の第12回が読めないので、どういう展開にしたかったのか、そしてどう修正したかったのかわからない。

戦時中に自分と関係した娼婦が産んだ捨て子の赤ん坊の幽霊や銀平の父の死の秘密などが謎のままである。本当はどこかにつながっていきそうなのだが。

それにしてもストーカーを肯定するような話なので、今の状況にはそぐわないのだろう。描かれているのは、当然犯罪スレスレでもあるのだが、今では犯罪だろう。後をつけたいと思う女性は、その女性に何か魔性の魅力があること、そして女性が後をつけられいると言うことで、後をつけている男のことをまた意識するという、ストーカーからは、自分を肯定するような描写もあり、確かに文学なのだが、今の世相にはそぐわないのかも。

軽井沢のトルコ風呂が描かれているが、こんなんだったのだと驚くような感覚になる。最初はセックスをする場所ではなかったんだと感慨深く読んだ。

川のある下町の話 1955

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川のある下町の話 映画川のある下町の話 1955

監督: 衣笠貞之助
原作: 川端康成
出演: 山本富士子, 根上 淳, 有馬稲子


川端康成の原作とは少し違うストーリー。映画の脚本としてはだいたいよくまとまっている。ストーリーの展開はよく、小説らしいところは削り、映画らしくうまく構成し直している。
有馬稲子は、若くて正面から観るとわからないが、斜めからだとそうかと思う。目が非常に美しいふさ子の印象とは、有馬稲子は違うが、それでも美しい。山本富士子も若くて綺麗だ。
川端は、美しい三人の女性を描いているが、日本の戦後の貧困と、裕福の対比がこの作品の原点だろう。そして当時の世相として溺水、肺炎、破傷風貧しい学生、パチンコ屋、泥棒、学費の援助、インターン、ダンスホールなど昔の風俗が出てくる。

桃子も、民子も裕福な家庭である。ふさ子はそうでない。義三も裕福でない家庭の出である。医者になる義三にとって、ふさ子に出会ってどんな医者になるかを決めたのは、なるほど小説よりもそこがはっきりしている。川端にしては、ヒューマンに溢れるストーリー仕立てである。小説では義三はもっと優柔不断である。

ふさこが襲われて、それを助けた、ボーイが怪我おい、2人で歩いていくのだが、そこはアメリカの軍用機が飛び交う丘である。ふさ子がそこで気を狂わせるのだが、演出としては面白い。なかなか迫力がある。しかし、ふさ子が気が狂う過程は小説の方がもっと、説得性があった。ふさ子が気を許したボーイが破傷風にかかり、看病しても死んでしまう。弟のことも思い出されて、自分が愛する人は全て死んでしまうと言う不安を持ち、深いショックの中に入る。

さまよい歩いたふさ子がたどりついたのが、バラックの跡地だったり、病院だったりするのはどうだろうか。小説とは違うがこういうこともあるだろう。

気が狂った、深いショックにおちいった、今で言うとPTSDだろうが、
電気ショックや、イソミタールの治療で治ったかのように見せるのはあの当時だから仕方がないか。

小説と違うところ
ふさ子の金を盗んだのは学生とはっきりさせている。
義三は、信州には帰らない
ボーイの達吉がふさ子を助けるのは同じだが、破傷風でなくてすぐに死んでしまう
最後の下町に赤痢の患者がでて、義三が働くのだがこれは、小説には出てこない。
ふさ子は、たしかに気が狂うのだが、さまよい歩いてたどり着いたのは、民子の家の近くで病院ではなかった。ふさ子の治療は民子がしていて義三ではなかった。そして病院の治療で回復する。

僕が目の綺麗な人を選ぶならあの当時は、八千草薫だったかな。
ふさ子と出会って、自分の進む道を決めることは素晴らしいことである。



川のある下町の話 川端康成 1953

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川のある下町の話 川端康成 川のある下町の話 川端康成 1953

川のある下町の話
原作 川端康成 1953

1953年の作品である。文章は後期の簡潔で美しい文体になっている。
ここでもまた魅力的で儚い女性のふさ子が主人公である。
インターンの栗田義三は、いままでの観察者よりも行動的な男性であるが、やっぱりいつも女性に助けられている。そう言った魅力的な男性を主人公にすることは多い。

戦後間もない、まだ多くの人々が貧しくその日の生活も苦しい時代の話。
医学部を卒業したインターンもまだ給料がもらえず苦しい生活を送り、貧しい者たちは、生活保護を受けて、バラックで暮らしていた。

この小説はそれなりに運命的な物語で最後まで読み進んでも面白い。
すこし今では古風になってしまった悲しい物語の展開だが、それでも今でも訴えかけるものがしっかりある。
三人の女性が実に上手く描かれている。そして戦後の貧しさ、裕福な生活の対比があり、義三はどちらの生活を選ぶのか迫られている。
最後の展開も川端らしい余韻を残している。義三とふさ子がこれからうまく行くかは読者の考えに任されている。
あの人はあなたところに帰るかどうか、わからないわ。あの人は、自分が愛する人は、みな死ぬと思い込んでいるのよ。


登場人物
義三 貧しい家の出であるが、伯父の援助を受けて医学部を出てインターンをしている。美しい顔貌を持っていて女性から好かれる。
ふさ子 パチンコ屋で働く美しい目を持つ薄幸の女性、川に溺れた弟を義三に助けてもらい、それ以来義三のことが気になる存在となる。
桃子 義三の従姉妹であり、義三に恋をして義三のことを気にかけている。幸せな家庭に育ち夢見がちである、しかし心根は善意に溢れている。
民子 義三の同期のインターン、やはり義三に恋をしているが理知的な女性。
達吉 キャバレーチェリーで働くボーイ。どこか義三に似た風貌をしている。ふさ子と同じように不幸な境遇で暮らしてきた。ふさ子を助けた時の怪我から破傷風になり死ぬ。

虹いくたび 川端康成 1950

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虹いくたび虹いくたび 川端康成 1950

みんな母の違う三姉妹 百子、麻子、若子を描いているのだが、最初に登場する麻子が主人公かと思ってしまうのだが。途中から、戦争の影を強く背負った百子が中心に描かれる。百子には、どこかに愛をなくした寂しさを感じるし、それに一人で優しさを拒絶している。戦争で死んでいった恋人の言葉がトラウマとなり、次々と美少年を求めて、そして捨てて行く。男に対する憎しみだろう。父に対しても、母とは結婚せず、母が自殺して、父の家に引き取られた。妬み、嫉妬がもともとあり、恋人の関係からそれが強くなっているようにも見える。

麻子には戦争の影は少ない、母と父の愛情を受けてまっすぐ育ったように描かれている。京都から東京へ帰る途中、琵琶湖で虹を見た麻子にはその後も虹と縁が深い。ミレーの虹の絵、東京の虹。麻子は夏二と幸せになりそうな予感があり、やっぱり麻子は祝福されているのだろうと百子は思うのだろう。
若子は、母(芸妓)の境遇を知りながら、それでも父親に会いたい気持ちがあるのだろう。そして姉たちへの遠慮がある。

この小説の舞台は最初、列車の中で琵琶湖にかかった虹であるが、おもに京都が描かれそして熱海と箱根も。

恋人の乳椀というものを考え出す川端はすごいと思うんだが。(昔はそいうのがあったのかも)、何かエロティックでいいんだが。金の首輪もそうだ。どうして百子は金の首輪をつけていたのだろう。

なぜ啓太は、百子にあんなことを言ったのだろう。百子を抱いた後に、ああ、つまらない。しまった。と。それに深く傷ついた百子は、美少年を求めて、次々と捨てていく。
啓太は百子と会う前に、娼婦とたわむれてくることが多かった。しかも、それを百子に話すのだった。百子は啓太の真意を計りかねて苦しんだ。それは、山の音の、修一のように妻の菊子よりももっと、セックスに長けた妖艶な女性がいいのだろうか。
それともこれは、啓太が百子に嫌われるように、自分に思いを残さないように言った言葉なのだろうか。それにしてもこの言葉は、女性を傷つけるだけの言葉のように思えるのだが。この言葉を発する前に、乳椀の型取りをするのも不思議なんだが。

山の音と共通するのに堕胎がある。百子は自殺した竹宮少年の子供を孕んでいた。しかし、啓太の父に促されるように、何の抵抗もなく堕胎してしまう。百子は虹を見ていないが、少年の死、堕胎を乗り越えて強く生きていきそうな、そしてそろそろ啓太から負った深い傷を癒されて生きそうだが。川端はそこに戦争で傷ついた女性がもっとも強く生きていくのを望んでこの小説を書いたかもしれない。

水原常男は川端自身の感情を描いているのだろう。二人で会話していく間に、水原は菊枝に何の魅力も感じないことに気付き、死んだ妻が水原のうちにまざまざと生きて來る。と描かれているように、結婚した亡き妻への愛を実感するのだろうが、本当にそうだろうか。亡くなったものに対する美しさを愛でているのかもしれない。それか倫理的なものを除けば、過去に美しいと感じた人物に、後に会って抱く幻滅感を描いている部分もあるのだろうが。

三人の異母姉妹については、同じ一人の母から生まれた子供たちでも、それぞれ父母に似ながら、しかもそれぞれ違っていて不思議だが、水原の場合は、三人の娘がそれぞれ別の母に似て、いちじるしくちがいながら、しかも一人の父に似ているから、なお不思議と言えば言えた。
こんな感情を抱く川端にも親近感が湧く。

若子は、このまま母と一緒に京都にいるだろう、子供を育てないで、太田に預けている姉の人物像が気になるのだが、描かれていない。

どこか古都や美しさと哀しみと似たストーリー仕立てではある。この作品の方が古いのである。ただ余韻を残す、もしくは最後まで語られないストーリーはすこし未消化気味になるのだが。そして話は意外と同じような内容になってしまっているのではないかと思ってしまう。そこに彼のストーリーテラーとしてのそれほどの才能を感じない。しかしやっぱり文章の美しさ、もの哀しさ、日本的な情緒を表現するには長けていたと思う。



伊豆の踊子 川端康成 1926

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伊豆の踊子伊豆の踊子 川端康成

川端の初期の代表作である。川端の小説は何冊か読んで大好きなのだが、この有名な小説は断片は読んだことがあるがこの短い小説を全て読んだことがなかった。

学生の中にある何か晴れない気持ちが伊豆の旅に向かわせる。そして修善寺、湯ヶ島、天城峠を越え湯ヶ野、下田に向かう旅芸人一座と道連れとなり、踊子の少女に淡い恋心を抱く旅情と感動が描かれている。

簡潔で綺麗な言葉が短い文章でリズムよく綴られているところもあり、円熟期の書き方の片鱗が見て取れる。やっぱり川端は女性を描写することに非常に長けている。そして運命の輪のような最初と最後の幻想的な締め、ここでは、最初と最後の老人と三人の孤児。これが若い学生と踊子の対比のように現実的、もしくは超現実的に現れる。

青春の自意識のつらさは、孤児根性に歪んでいた青年の自我の悩みや感傷
これは、一高生というプライドとも関係があるのだろう。それが踊子達との交流を通して、自分の中にあったわだかまりが消える。

他に小説の細かな点についての感想として

#自然と心象とが交わったような表現が素晴らしい。
雨の音の底に私は沈み込んでしまった。

#踊子の描写は、乙女の理想的な姿が描かれている。
はにかみや羞らい、天真爛漫な幼さ、花のような笑顔、袴の裾を払ってくれたり下駄を直してくれたりする甲斐甲斐しさ
1.彼女は私の肩に触るほどに顔を寄せて真剣な表情をしながら、眼をきらきらと輝かせて一心に私の額をみつめ、瞬き一つしなかった。
この美しく光る黒眼がちの大きい眼は踊子の一番の美しい持ちものだった。二重瞼の線が言いようなく綺麗だった。それから彼女は花のように笑うのだった。花のように笑うと言う言葉が彼女にはほんとうだった。

2.海際に踊子がうずくまって「私」を待っていた。2人だけになった間、踊子はただ「私」の言葉にうなずくばかりで一言もなかった。「私」が船に乗り込もうと振り返った時、踊子はさよならを言おうとしたようだが、もう一度うなずいて見せただけだった。

#自分のエリート意識と孤児根性が自分の自己嫌悪の原点でもあり、自我の悩みや感傷があるのだろう。それが旅芸人とのふれあいでそうして心が解放されるのが次の文章であるが、
もともと自分がエリートの学生であり、同行しているのが卑しい旅芸人であるということを踏まえた感情の流れのように見えてしまう。その当時と現代の感覚が変わったせいだろうか。

1.私は朗らかな喜びでことこと笑い続けた。頭が拭われたように澄んで来た。微笑みがいつまでもとまらなかった。

2.この物言いは単純で開けっ放しな響きを持っていた。感情の傾きをぽいと幼く投げ出して見せた声だった。私自身にも自分をいい人だと素直に感じることができた。晴れ晴れと眼を上げて明るい山々を眺めた。瞼の裏が微かに傷んだ。二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に耐え切れないで伊豆の旅に出て来ているのだった。

#老人と三人の孤児を託されるのは、最初の老人との関連性(円が閉じる)のと、自分が孤児であるために、孤児を引き受ける運命的なものがあるように描かれている。


#最後の流れ
1.私はどんなに親切にされても、それをたいへん自然に受け入れられるような美しい空虚な気持ちだった。

2.真っ暗ななかで少年の体温に温もりながら、私は涙を出まかせにしていた。頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった。

最初の文章は旅芸人とのふれあいから生まれた素直な気持ちのようでも見えるのだが、最後の文章はもっと感傷的であり、突然現れた少年からの温もりを強く感じているのはどうしてだろうか。
この小説がの底流に初代からの婚約解消と寄宿舎での下級生・小笠原義人との同性愛体験もあるからと思えてしまう。

伊豆の踊子 1963

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伊豆の踊子 吉永小百合

伊豆の踊子 1963

監督: 西河克己
出演: 吉永小百合, 高橋英樹, 大坂史郎, 十朱幸代, 宇野重吉

実際の作品にはない、大学教授(宇野重吉)の40年前の追想から始まる。
この作品は、学生と踊子の淡い恋心だけでなく、踊子、薫の視線から見た大人の世界にも焦点が当てられている。そう言う意味では、原作の川端がよく使う手法の学生の立場から踊子を描いた作品とはかなり違う味わいが出ている。
しかし薫の素朴で、純粋な気持ち、生き生きとした学生に対する恋心がしっかりと薫の立場で描かれている。そして原作には描かれていない人物が出てくる。娼婦のお咲(南田洋子)、お清(十朱幸代)それに人夫頭などである。ただこれはその時代の世相をよく表している設定であるし、薫の未来の予感というか、学生との身分違いがはっきりと際立つようになっている。この映画に深みを与えている。

吉永小百合の初々しい若い頃が映し出されている。踊りも綺麗で可憐である。吉永小百合の笑顔は、トレードマークであるように思えるがそれが存分に出ている。そして踊子の初々しい恋心、大人の世界への不安、娼婦の運命の儚さに対する驚きと恐怖とが、彼女の表情にうまく表現されている。それにしても踊っている時の吉永小百合の可憐さは素晴らしい。

高橋秀樹の若い頃の姿も映し出されて、若い頃の高橋英樹はかっこよかったと再認識できる。

踊り子と学生という組み合わせが今ではどんな状況だったか想像しにくいのだが、1963年のこの映画の封切当時も、同じようにこの設定は難しかったのかもしれない。それで、導入と最後にダンサーと結婚する学生を出してその当時と、原作が描かれた時代を対比してるのだろう。

そういえば山口百恵の伊豆の踊子もあったが見た覚えがあるような内容なである。また一度見たくなった。

美しさと哀しみと 1965

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美しさと哀しみと美しさと哀しみと 1965

監督: 篠田正浩
原作: 川端康成
出演: 山村聰, 加賀まりこ, 八千草薫, 山本圭, 渡辺美佐子, 杉村春子

松竹映画である。これは岩下志麻の古都を見てから、松竹が作った川端康成の映画を見たくなったからである。
川端作品らしいく、いつものように美しい女性たちが描かれている。ここでは、音子とけい子の美しい女性がいて、そして珍しく嫉妬に燃える妻が登場する。
古都の執筆中と同時期に執筆されており、これも京都が舞台である。映画では化野、そして嵯峨野が竹林が出てくる。

中年小説家、大木年雄がかつて愛した少女で現在日本画家となった女、上野音子に会いたいと思い京都を訪れ、一緒に除夜の鐘を聞かないかと誘う。彼女は一緒に住んでいる弟子の坂見けい子を連れてくる。彼女は花やかな顔立ちを持ち、怖いような美しさがあった。

上野音子役の八千草薫の美しさがいい、そして坂見けい子役は若さにあふれ奔放で妖艶な魅力ある加賀まりこである。加賀まりこについては原作者川端康成が大変気に入り、私がまるで加賀まりこさんのために書いたやうな、ほかの女優は考へられないやうないちじるしい個性と素質が出てゐた。と言わせたくらいである。川端がイメージしたエキセントリックで妖精じみた娘である。
二人とも和服姿が非常に似合う、そしてとても美しい。

上野音子と坂見けい子がレズビアンの関係であった。当時はセンセーショナルなのかもしれないが、音子のためにけい子が大木に復讐する。
大木と関係を持ち、そして息子の太一郎を誘惑し、琵琶湖で事故と見せかて溺死させてしまう。これも当時はセンセーショナルだったのではないだろうか。

それにしても、けい子が大木とは、左の胸を触らせず、太一郎の時は右の胸を触らせるのを嫌がるのはどうしてだろう。

川端は、坂見けい子の魔性のような美しくそして若い女性を描きたかったのだろうか。坂見けい子は、上野音子を愛しすぎて、彼女苦しめたそして今でも苦しめる大木に復讐を思い立つ。それも上野音子と大木の子供は早く死んだため、大木の息子を殺す事を考えたのだろう。


音楽は武満徹による微分音でずらした調律の2台のハープを主に使用している。これは聞いていてもわからなかった。あとでノヴェンバー・ステップスのオーケストラ内の2台ハープの書法へと応用されたらしい。

雪国 川端康成 1937

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雪国雪国 (小説)川端康成 1937

国境の長いトンネルをつけると雪国であった。有名な言葉で始まる小説であるが、子供の頃はかなりもてはやされた小説である。
小学生の頃まず映画で見たのだが、ストーリーが理解できなかった。なぜこの雪国がこれほど評価が高い作品なのか全くわからないでいた。伊豆の踊り子もあまり好きでなかったのだが。どうしてだろう。後で、掌の小説などの川端康成の作品が好きになっても、この雪国はどうしても読んで見たいとは思わなかった。今回再度印象の悪かった映画の雪国を見て小説も読んで見ようと思った。

雪国の主な舞台は、上越国境の清水トンネルを抜けた湯沢温泉である。
小さな温泉町にきて山から降りてきて芸者遊びをしようと考えていた島村は、そこでまだ芸者にはなっていない若い女が現れ、女と島村はお互いに惹かれいく。そして葉子と言う声が綺麗でひとみが魅力的な女性が現れる。

まず、これは小学生ではこの男女の関係を理解することができないとわかった。芸者遊びは今でいうデリヘルみたいなものか。それに島村という男が無為徒食(働いていない)が、お金持ちである設定も小学生には理解しづらい。

川端康成には、文章は美しいのだが、たいてはそこにエロティシズムもある。
最初に、"島村は退屈まぎれに左手の人差し指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている。"なんとすけべな表現なのだろう。この左の人差し指の感触と堂々とかけるところがすごい。
と同時に汽車に乗っていた女性に関心が向く。この辺りが男心なのであろう。こんなことが、当時小学生だった私に分かるはずがない。

二人の女性の描き方が、なにか現実とも幻ともつかないところが、川端らしい描き方だと思う。

どちらも現実の直視だけでなく、鏡からみた美しい姿を描いている。これが本当に現実なのか、幻なのかわからなくしているのである。

葉子は、冒頭汽車の中で、駒子を思い出している時に突然、窓ガラスに映り出した。娘の眼と火が重なった瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮かぶ、怪しく美しい夜光虫であった。そして悲しいほど美しい声の持ち主でもあった。
葉子は、駒子に気がちがうと言われる女性であるが、この小説の最後にも突然、娘は火と重なって現れる。

駒子の美しさもまた鏡の中で表現される。鏡の奥が真白に光っているのは、雪である。その雪の中に女の真っ赤な頬が浮かんでいる。なんともいえぬ清潔な美しさであった。

葉子も駒子も以下の表現のように、鏡に映った現実の世界を島村は未定内容に思え、そしてだから異様に美し見えたのだろう。現実の世界に戻るということは別れを意味しているのかもしれない。

二人は果てしなく遠くへ行くものの姿のように思われたほどだった。
それゆえ島村は悲しみを見ているというつらさはなくて、夢のからくりを眺めているような思いだった。不思議な鏡のなかのことだったからでもあろう。その二つが溶け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。

駒子と島村とのやりとりも、これは小学生、中学生には理解できないだろう。今ならできるというなら、人生の経験を積んできたからだろう。

君はいい子だね。どうして?どこがいいの。
いい子だよ。
君はいい女だね。どういいの。いい女だよ。
くやしい、ああっ、くやしい。
このやり取りはなかなか理解できないんだが、いい女だよと言われるのが駒子は嫌いなのだろう、都合の良い女と言われているように思えるのだろう。ただ駒子がそう感じてしまうのは、以前にそんな経験があるからなのだろう。
あんた笑ってるわね。私を笑ってるわね。と続くのである。
これは女性から、男がいい人ねと言われることと同じかもしれない。悪い気はしないが、それだけでそれ以上深い関係にはならないということを意味しているのと同じようなものかも。

島村の"徒労だね。"という口癖があるのだが、これを言わしている島村は妙に都会で汚れた存在に思われる。そして徒労だと言われながら生きている駒子や葉子が非常に美しく思われるのである。

最後に駒子との逢瀬はそろそろ終わりにしようと思う島村がいるのだが。

駒子の髷は緩んで、喉は伸びている。そこらにつと手をやりそうになって、島村は指先がふるえた。島村の手も温まっていたが、駒子の手はもっと熱かった。なぜか島村は別離が迫っているように感じた。
どうしてこの表現で別離が迫っていると感じられるのだろうか? 駒子に対してすこし離れた感情を持ち、彼女に触ることができなくなっている自分を感じたからだろうか。


最後に、
再び、葉子が繭倉の建物から仰向けで落ちた所に、木が葉子の顔の上で燃え出した。
これは、最初に見た光景のデジャブである。そして最初に出会った葉子に対する印象がこの予兆だったように描かれているのである。そしてこれが最初と最後を結ぶ訳であるのだが。
一瞬に駒子との年月が照らし出されたようだった。なにかせつない苦痛と悲哀もここにあった。

その火の子は、天の河の中に広がり散って、島村はまた天の河に掬い上げられてゆくようだった。煙が天の河を流れるのと逆に天の河がさあっと流れ下りて来た。
島村はやはりなぜか死は感じなかつたが、葉子の内生命が変形する、その移り目のやうなものを感じた

この子、気がちがうわ。気がちがうわ。そう言う声が物狂わしい駒子に島村は近づこうとして、葉子を駒子から抱き取ろうとする男達に押されてよろめいた。踏みこたえて目を上げた途端、さあと音を立てて天の河がしまむらのなかへ流れ落ちるようであった。

ついに別れの時がきたのだろう。駒子の住んでいる世界と自分の世界はちがう。天の河が、島村の中に流れ落ち今まで見ていた夢、幻が消えてしまったのだろう。


小説を読んだ最後の感想。


葉子と行男の関係はどうだったのだろうか?これは小説でも映画でも語られていない。また駒子と葉子の関係もよくわからなかったのだが。

駒子と行男は港町で幼馴染であった、しかし東京で病気になった行男を、駒子は看病することができず、看病するために葉子を東京に送ったのだろう。その東京で葉子は行男を好きになり、親身に看病したのであろう。
だから駒子には葉子に遠慮があるし、葉子も駒子に遠慮があるのだろう。
そして気がちがうわ、気がちがうわと駒子が葉子のことを言うのだが、葉子は普通の人とはちがう思いつめた行いをするのだろう。それが行男に対しても、最後の火事の現場でもそうだったのだろう。

駒子のような恵まれない境遇にいる女性は現代ではいないのだろう。子供の頃に売られ、東京に行ったが、旦那が早く死んだので、返された。引き取った先の息子が病気になって、治療費のために芸者になる。そして息子が死に、師匠が死んでも、残された自分の家族のために年季奉公をするようになった。
そこに島村は、駒子の憧れであり、純粋に好きな男だったのだろう。島村にとっては、東京に妻や家族がいて、温泉場に駒子に会いに遊びに来ているだけである。島村は駒子の純粋さ、そして駒子の生活を見ながら、そろそろ別れなくては、もっと駒子を惨めにしてしまう気がしたのだろう。
また考え直せば、これ以上駒子に深入りすることができない自分を感じたからとも言えるのではないだろうか。


ただ、なぜこれが日本文学の代表作なんだだろうと思う気持ちは今も変わらない。この小説は、川端流の幻想的なエロスと温泉宿、芸者の郷愁があるんだが、それだけのような気がしてならない。


川端康成の言葉に、私の作品のうちでこの「雪国」は多くの愛読者を持つた方だが、日本の国の外で日本人に読まれた時に懐郷の情を一入(ひとしお)そそるらしいといふことを戦争中に知つた。これは私の自覚を深めた。と書かれている。なるほど戦時中には軍隊で外国に行ったものにはすごく人気があった作品なんだとは納得できる。

古都 1963

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古都 1963古都 1963

監督: 中村登
原作: 川端康成
出演: 岩下志麻, 吉田輝雄, 早川保

古都は原作を読んでいる。古都といえば北山杉であるが、これは、まったく東山魁夷の絵とイメージが一致する。だから東山魁夷も好きになったと思ったのだが。実はこの小説と東山魁夷は繋がっている。初版刊行本の口絵には、終章と同じ題名の「冬の花」と題する東山魁夷の北山杉の図が掲載しているのだが、これは、川端の文化勲章受章祝いとして描いたものである。なるほどと思う。

映画は、京都の有名な祭りを通じて、祇園祭、大文字の送り火、時代祭を通じて四季を描いている。

岩下志麻の美しさが光るし、一人二役であるが、綺麗に化粧された千重子と化粧っ気がない苗子の対比が素晴らしい。当時22歳である。いつもは非常に緊張感が漂う綺麗な顔立ちであるが、このときはもう少し少女の雰囲気を漂わせている。

千重子と苗子の双子の姉妹を描いているのだが、
千重子は捨てられ、呉服問屋の佐田家で我が子として育てれられた。大学に行きたかったが、父から呉服問屋をつぐためには必要がないと言われ、呉服問屋の仕事を覚えている。そして将来の夫は家のために選ぶことになると考えている。
千重子は、呉服問屋の娘として、傾いている家をしっかりと支えていく決心をしている。

苗子は、子供の頃から双子のもう一人の姉がいることを聞かされていたが、両親は幼い頃になくなっている。自分の方が両親に残されたことを、引け目に思い、今の千重子の幸せを決して壊すまいと心に誓っている。

最後に苗子は、最初で最後に千重子と一緒に夜を過ごし、今後千重子の幸せを壊す事は一切しない決心で北山に帰ってくのである。
その最後のシーンのなんとも切ない余韻が良いんのである。

川端康成らしくいつものように激しい芸術に対する思いが衝突シーンがある。それは、千重子の父が描いたクレーの絵からヒントを元にした図柄に、秀男が意見するところである。父の太吉郎はその図柄を破って捨ててしまう。

三人でスッポンを食べるシーン
祇園祭の宵山で、苗子と会うシーン
北山杉の山の中で、雨に打たれて二人が抱き合うシーン
千重子の家に泊まり二人で抱き合うシーン

Thousand Cranes 千羽鶴 1969

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Thousand Cranes 千羽鶴 1969

監督: 増村保造
出演: 平幹二朗, 若尾文子, 梓英子, 京マチ子

この映画は市川雷蔵で予定されていたが、ガンで亡くなったため、平幹二朗に変更されている。三谷菊治の役は、僕には誰が演じてもそれほど変わらないと思う。やっぱり三谷菊治を囲む女性陣が重要である。
原作読んでいるので、この映画の中にやや物足りなさを感じてしまう。それは、特に太田夫人の配役である。川端康成のイメージした太田夫人は、若尾文子だっただろうか。彼女のしなだれるような話し方では僕にはピンとこないのである。太田夫人は男を誘っているのではない、男が自然と誘われてしまう魅力を持っているのだ。自分一人では生きていけない頼りなさを持ちながら、妖艶で純粋に愛に生きる人じゃないといけない。そこが若尾文子にはない。僕には、当時なら八千草薫とか、もう少し清純でありながら妖艶さを出せる天然な人がいいんだが。すぐには思い浮かばない。今の女優でいうとどうだろうか? 

京マチ子は、栗本ちか子のイメージのままである。南美川洋子も確かに稲村ゆき子で良さそうだ。梓英子が文子だろうか。やっぱり思い入れのある太田夫人、文子のイメージにはぴったり来ないのである。

千羽鶴は、僕には非常に思入れのある川端作品である。それでもこの映画は十分に見応えがあった。三谷菊治が鎌倉円覚寺の境内で、千羽鶴の風呂敷包みを抱えた令嬢に出会うシーンもイメージ通りで美しいシーンである。娘の文子が母の形見の志野茶碗を打ち砕くシーンもいい。
千羽鶴の風呂敷包み、胸のあざ、口紅跡がついたような志野茶碗、茶室など非常に日本的なものが折り込み込まれて、そして心の中に深く刻まれるものである。

そして栗本ちか子の胸のあざ、これはちか子の心の中を表すように変わらずいつもあるものの象徴でもあるだろう。その醜さは、美し出で立ちに隠され、お茶の先生になり伝統の中に隠されている。
娘の文子が母の形見の志野茶碗を打ち砕くのは、彼女が三谷菊治を愛し、母に嫉妬を感じたからであり、そしてまた自分の中に母の血を感じたためでもあるだろう。また母と私は三谷菊治のそばにいるべきでないという心の叫びがそうさせたのだろう。文子と母との違いはその心持の強さにあるだろう。
そして菊治が父の唐津の茶碗を割る。菊治は文子を抱いたことで、父や母、そして太田夫人のことを話すられると話す。そして太田夫人の志野茶碗と同じように父の唐津の茶碗を割ることで、新しい自分の出発を決心した。 原作には、父の唐津の茶碗を割るところは描かれていない。菊治はもっと受身的な役割になっている。この映画では菊治にもっと気持ちを表現させたかったのではなかっただろうか。

その心の複雑さが現れ、美しいものを破壊する行為に集約される何か儚さの象徴でもあるだろう。

川端康成は、私の小説『千羽鶴』は、日本の茶の心と形の美しさを書いたと読まれるのは誤りで、今の世間に俗悪となつた茶、それに疑ひと警めを向けた、むしろ否定の作品なのです。と言っている。
川端康成は、ただ俗悪となった茶の社会を強く表現するのしているとは思えず、茶器の中に確固たる人間のような存在感を表現していたと思う。
今でも千羽鶴は、美しさと醜さそして儚さが交錯した非常に妖艶で美しい作品であると思う。